会長挨拶

会長 矢本 希夫
和歌山県産婦人科医会会長
和歌山ろうさい病院
〒640-8505
和歌山県和歌山市木ノ本93番1
TEL:073-451-3181
FAX:073-452-7171
令和5年4月より近畿産科婦人科学会副会長を務めております和歌山県産婦人科医会の矢本希夫です。
5月にはすでに国内では35度以上の猛暑日を記録し、例年以上の夏の暑さが予想されます。5月8日から新型コロナが2類相当感染症から5類となり屋外では熱中症予防のためマスクを外す方々も増えて脱マスクも少しずつ浸透中です。
今回のコロナ禍によって感染拡大の原因となる人と人の接触を避け、ものに触れないための非接触の機器やビジネスが身近でも進んできていること実感します。
セルフレジやスマホ決済、オンライン会議等々、これらはコロナ後も利便性向上でさらに拡大し日常の「非接触」が当たり前になってゆきそうです。
コロナ禍による経済状況の悪化、ロシアのウクライナ侵攻に対する経済制裁による物価の上昇、出生率の低下、生産年齢人口の減少など、産婦人科医療を取り巻く環境は一層厳しさを増しています。このような時期に歴史と伝統ある本学会の会長を務めさせて頂くことの責任を重く受け止めています。近畿2府4県には、それぞれの地域で元気ある女性が多く暮らしておられます。思春期、成熟期、更年期そして老年期のすべての女性の健康支援を継続していく必要があります。女性医学・医療の専門家として、女性の健康に関する問題に寄り添うことが、産婦人科医の責務と考えます。
会員の皆様方のご協力により、近畿6府県の産婦人科医が一丸となって諸問題を解決できるよう、鋭意、努力いたしますので宜しくお願い申し上げます。
近畿産科婦人科学会の沿革について
(近畿産科婦人科医界沿革史、昭和54年(1979年)発行より抜粋)
(細字は参考として日本産科婦人科学会の変遷)
年月日 | 記 事 |
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明治32年(1899年)3月1日 | 関西産科婦人科学会発足(於、緒方正清邸) |
発起人:高山昌平、緒方正清ほか17名 | |
明治32年(1899年)4月15日 | 第一回関西産科婦人科学会開催(於、大阪医学校) |
演題数27、参加者150名 | |
明治32年(1899年)12月 | 関西産科婦人科学会会報第1回を発行 | 明治34年(1901年)2月26日 | 中央婦人科学会発足(於東京神田学士会事務所) |
発起人:浜田玄達ほか28名 | |
明治34年(1901年)4月6日 | 日本婦人科学会と改称 |
明治35年(1902年)4月1日 | 第一回日本婦人科学会開催(於、東京大学生理学教室) |
演題数26、参加者160名 | |
明治35年(1902年)7月 | 関西産科婦人科学会は日本婦人科学会に合流 |
明治36年(1903年)1月15日 | 日本婦人科学会雑誌第1巻1号発行 |
大正4年(1915年)4月15日 | 近畿産婦人科会創立委員会開催 |
大正4年(1915年)7月4日 | 第1回近畿産婦人科会総会開催(於、京都大学学生集会所) |
大正4年(1915年)11月 | 近畿婦人科会会報第1号発刊 |
昭和11年(1936年)3月29日 | 産科婦人科医学会と改称 |
近畿婦人科会会報を産婦人科紀要と改称 | |
昭和24年(1949年)3月 | 近畿産科婦人科医会を結成 |
昭和24年(1949年)4月 | 日本産科婦人科学会結成 |
昭和24年(1949年)7月 | 日本産科婦人科学会雑誌第1巻第1号発刊 |
昭和24年(1949年)11月 | 産婦人科の進歩第1巻第1号発刊 |
昭和31年(1956年)5月 | 近畿産科婦人科学会と改称 |
現在に至る |
副会長挨拶

副会長 赤﨑 正佳
奈良県産婦人科医会会長
赤崎クリニック
〒633-0053
奈良県桜井市谷111
TEL:0744-43-2468
FAX:0744-45-2112
令和5年度近畿産科婦人科学会の副会長を拝命致しました奈良の赤﨑でございます。
本学会が創設され、約75年経過しようとしています。
歴史と伝統のある本会ではありますが近年の社会情勢のめまぐるしい変化や変革の下でも医療現場を含めた学会諸活動の停滞は許されず様々な難局を乗り越えていく使命を帯びております。
微力ながら学会に対する責務を果たす為精一杯尽力してまいる所存でございますのでよろしくお願い申し上げます。
役員一覧(令和5,6年度)
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